デジタル教科書とか電子黒板について思うこと

デジタル教科書とか電子黒板とかが割と話題になっていて、自分もいろいろな理由で興味があります。Facebookでもみんなのデジタル教科書教育研究会というグループに参加させてもらっていて、特に現場の人の意見を聞きたいと思っています。

それで備忘録的な意味で、現時点での自分の考えを少し書きとどめようと思います。議論をしたいのであればFacebookなどでやるつもりですが、今回はそうしません。あくまでも現場を全く知らないけど、いろいろな授業を受けてきた自分の経験に基づいて話したいと思います。

「デジタル教科書」、「電子黒板」という名前が悪い

何が悪いかというと、既存の「教科書」や「黒板」を置き換えようという発想が良くないです。「教科書」にしても「黒板」にしても、長く教育現場で使われており、どうやって活かすかは各先生たちがさまざまな工夫をしながら身につけています。親の世代も「教科書」と「黒板」で育っていて、それをデジタルなもので置き換えることには抵抗を感じるはずです。また「教科書」は価格も安く、「黒板」はすでの学校に備わっているので事実上無料です。

こう考えると、既存の「教科書」を「デジタル教科書」で置き換えるのは、変化への抵抗という精神面でもまた価格面でも全く無理な話です。やるだけ無駄と言えます。もちろん「教科書」の代わりにiPadを持ち歩けばランドセルが軽くなるという話はありますが、その程度の理由で何万円もするiPadを子供に持たせるということはほぼあり得ません。

「電子黒板」はもっと話がおかしくて、価格があまりにも高いので「黒板」に置き換わるはずがないことは誰もが認識しています。それで「電子黒板」にどういう役割が期待されているかというと、マルチメディアを活用した副教材ということなのですが、これだったら昔から学校に置いてあったテレビと同じ役割です。したがって「電子黒板」と呼ばずに、「○×テレビ」という名前をつけるべきです。

「教科書」「黒板」ありきだから「デジタル教科書」、「電子黒板」という名前がつく

「デジタル教科書」、「電子黒板」という名前がどうして使われるか、どうして「○×テレビ」という名前がつかないか、その理由を考えてみます。

一つ考えられるのは、「教科書」「黒板」というものが学校教育に不可欠だという常識(常識だからといって、後述するようにそれが正しいわけではありません)がありますので、「デジタル教科書」、「電子黒板」という名前にすればなんだかとても重要な役割を担うように聞こえるという可能性です。「○×テレビ」という名前にしてしまったら、無くても教育上は支障が無いように認識されてしまいます(仮に実態は「○×テレビ」であったとしても)。同様に「デジタル副教材」よりは「デジタル教科書」としてしまった方が重要そうに聞こえるのでしょう。

でもちょっと立ち止まって考えて欲しいのです。そもそも「教科書」とか「黒板」って必須なのでしょうか。これらを使わない教育の形というのはあり得ないのでしょうか。「教科書」「黒板」にとらわれず、ゼロから教育を考え直した場合、必要なのは何なのでしょうか。そのときにデジタル技術が果たす役割は何でしょうか。そいういう発想が本当は必要だと思います。

ちなみに僕が30年以上前に受けたイギリスの現地の小学校の授業では「教科書」はありませんでした。また少なくとも3年生になるまでは「黒板」を使いませんでした。

1, 2年生の頃は机で島を作って、英語や算数の授業では問題集みたいなものを各自で解いていました。わからなかったら先生が回って教えてくれました。

3年生になって歴史とか地理の授業をやりましたが、「教科書」はなく、先生が独自にいろいろな授業を用意してくれているように見えました(裏でどういうことがあったかわかりませんが)。そして「黒板」を使わず、先生は口頭でいろいろな歴史の話をしてくれます。それを生徒は必死にメモをとり、そして授業の最後は先生が出題した問題を解きます(問題といってもかなり自由記述に近い)。必死にメモをとり、すぐに問題を解くので、授業内容は良く頭に残りました。僕は未だにこの授業の形態が一番好きで、人の話を聞きながら必死にメモをとる(板書を写すのではなく)のが大好きです。

少なくとも僕にとっては「教科書」「黒板」ありきということはありませんし、これらを使わずに効率的に授業をすることはいくらでも可能だし、その方が効果がでるのではないかと考えています。

デジタルって本当はもっとすばらしい

デジタルのすばらしさって、既存のものに置き換わることじゃないんです。今まで存在しなかったことを可能にするのがデジタルの良さなのに、「教科書」「黒板」ありきという既存の枠組みの中で考えてしまったら思考が狭くなってしまいます。

例えばデジタル技術の発達により、写真やビデオを撮ったり編集したりすることが画期的に簡単になりましたし、何よりもフィルム代が全くかかりません。iPod Touchのような2万円程度の機材があれば、それだけで子供はロバート・キャパにもなれますし、スティーヴン・スピルバーグにもなれます。またアニメの作成を支援してくれるソフトを使えば、宮崎駿にもなれてしまうのです。

これを学校の授業に活かさない手はないと思いますが、どうでしょうか。身の回りを観察したり、おもしろく感じたことを映像に納めたり、他人に説明したり、起承転結を構想したりなど、いろいろな力が身につくはずです。

アニメを作るソフトなどを使えば、子供たちに日本史物語や地理物語をいろいろ作らせることができます。これだけやらせれば、学校で習ったことは一生記憶に残るのではないでしょうか。

もう一つ、電子メールを使ったり、ブログを読んだり書いたり、FacebookやTwitterを使っている人なら皆感じていることですが、デジタルによってコミュニケーションの形が大きく変わりました。いろいろな人のいろいろな意見を簡単に知ることができるようになりましたし、自分の意見を他人に伝えることが自由にできるようになりました。このコミュニケーションも授業に生かせるのではないでしょうか。

例えば今までだったら学校の宿題で読書感想文を書かされても、読んでくれるのは先生だけでした。そうではなく、学校内のLANでブログシステムを運用すれば、読書感想文はみんなで読んで、みんなで議論するものになる可能性があります。自分はこう読み取ったけど、友人Aは違うように読んでいたんだ。彼はそういうものの考え方をするのか。そうやって自分の考えのポジションを知ることができるし、他人との意見の違いも尊重できるようになるのではないでしょうか。親しい友人でも、なかなか思考回路を理解することはないのですが、そのレベルでのコミュニケーションを可能にしてくれるのがデジタルの一つのすばらしさだと思います。

その一方でデジタルな問題集というのは当たり前だし、子供たちもやってくれるとは思いますし、効果も高いとは思いますが、あまりにも退屈な発想です。必要だと思いますが、デジタル時代の子供を育てるという夢のような話からすると、あまりのもわくわく感のないことです。

もうちょっと幅広く、夢を広げて考えてみましょう。